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鹿児島地方裁判所 昭和45年(ワ)439号 判決 1972年11月08日

原告 南郷ノブ子

原告 南郷ふみ子

右原告二名訴訟代理人弁護士 村田継男

被告 日本國有鉄道

右代表者総裁 磯崎叡

右指定代理人 五島太三郎

<ほか三名>

主文

被告は原告南郷ノブ子に対して金一、〇〇〇、〇〇〇円、原告南郷ふみ子に対して金一、二五〇、〇〇〇円の支払いをせよ。

各原告のその余の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを四分し、その三を原告らの連帯負担とし、その余を被告の負担とする。

この判決は、原告南郷ノブ子が金三〇〇、〇〇〇円、原告南郷ふみ子が金三七〇、〇〇〇円の担保を供したときは、担保を供した原告において主文第一項に限り、仮に執行することができる。

被告が原告南郷ノブ子のために金五〇〇、〇〇〇円、原告南郷ふみ子のために金六七〇、〇〇〇円の担保を供したときは、担保を供した原告による前項の仮執行を免れることができる。

事実

第一、当事者が求めた裁判

原告ら

「被告は南郷ノブ子に対して金四、〇〇〇、〇〇〇円、原告南郷ふみ子に対して金五、〇〇〇、〇〇〇円の支払いをせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決、および仮執行の宣言。

被告

「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決、および被告敗訴の場合には仮執行の免脱の宣言。

第二、当事者の主張

一、原告らの請求原因

(一)  原告南郷ノブ子(以下「原告ノブ子」という)の夫であり、原告南郷ふみ子(以下「原告ふみ子」という)の父である南郷虎一(以下「虎一」という)は、田約三畝歩、山林約四町歩を所有し、山林の立木を買受け、これを伐採して販売することを業とし、兼ねて農業を営んでいたものである。

(二)  昭和四四年八月二日午前一一時頃、虎一は、長さ四、五尺に切った直径二寸位の松原木を、約二尺五寸位の高さに積載したトレーラーを連結した耕耘機を運転し、鹿児島県曽於郡財部町下財部所在の國鉄日豊本線赤迫踏切(以下「本件踏切」という)に通じている農道(以下「本件農道」という)を北進して、本件踏切の南側に到達した。当時、本件農道の両側(東側および西側)は、本件踏切の南側約一・五メートル位のところから南方へ約四〇ないし五〇メートルの間が、高さ約三ないし四メートルの崖となった切通しとなっていたので、右の部分からは左右の見通しは全くきかず、さらに、本件踏切附近における日豊本線の線路は、約七〇度のカーブをなし、かつ東側から西側へ下り勾配となっていて、本件踏切の南側からの線路上の見通しは、東側に対してはせいぜい約七〇ないし八〇メートル、西側に対しては約三〇ないし四〇メートルの範囲しかきかない状態にあった。虎一は耕耘機の機首が本件踏切の南側約二メートルの地点に到達した位置で耕耘機を停車し、エンジンをかけたままで下車し、原木積出場所から徒歩で同行して来た堂領金造とともに、本件踏切を横断し、本件踏切の北方約一五メートルの本件農道と県道の交差点(本件農道の入口)際の掲示板にかけられていた時計と同所に掲示されていた本件踏切の列車通過時刻表を調べたところ、約一〇分前に下り列車が本件踏切を通過し、その後約一時間は本件踏切を通過する列車はないことになっていた。虎一、堂領両名は本件踏切に戻り、堂領は本件踏切の北側の東端の線路鏡の下に立ち、通過列車との安全の確認に当り、虎一は停車してあった耕耘機の運転席に乗車した。堂領の右位置からの線路上の見通し距離は、東側は約一〇〇メートル位、西側は約五〇メートル位であったが、堂領には進行して来る列車は見えず、またその進行音も聞えなかったので、堂領は耕耘機が本件踏切を横断しても安全であると考え、耕耘機運転席の虎一に対して、「来い」といって本件踏切の横断を開始するよう合図した。虎一が右合図に従って、エンジンをかけたままにしてあった耕耘機を発進させ本件踏切の横断を開始したところ、突然下りディーゼルカーが東方から進行して来た。そこで虎一は耕耘機のエンジンを一杯にふかし、できるだけ速かに本件踏切の横断を終ることによって列車との衝突をさけようとしたが、間に合わず、耕耘機に連結されていたトレーラーの中央部附近にディーゼルカーが衝突し(以下右衝突事故を「本件事故」という)、虎一は本件踏切の西方の線路北側の側溝内に投げ出され、即死した。

(三)  本件踏切は前記のとおり線路上の見通しが両側ともに悪いにかかわらず、踏切番は配置されておらず、遮断機、警報機等も設置されておらず、本件踏切より西側の線路上の見通しを拡げるための線路鏡が設置されているのみであり、本件踏切附近に設置されていた時計、および掲示されていた列車通過時刻表は、むしろ本件事故の誘因となった。もし列車が本件踏切から五〇〇メートルないし六〇〇メートルの地点に到達したときから、その接近を知らせる警報機、点滅機等の保安設備が本件踏切に設置されていたならば、本件事故の発生は防ぎ得たものであり、右のような保安設備が設置されていなかったことは、被告所有の土地の工作物である本件踏切の設置、保存上の瑕疵であり、本件踏切においては昭和三八年にも即死事故が発生しており、本件事故は右の瑕疵に因って発生したものであるから、被告は本件事故に因る損害を賠償すべき義務を負ったものである。

(四)  本件事故に因って虎一が被った損害は次のとおりである。

(1) 本件事故によって虎一が運転していた同人所有の耕耘機は完全に破壊してしまったので、右耕耘機の当時の価格に相当する三六〇、〇〇〇円の損害を被った。

(2) 虎一は前記の営業による収益のうちから、毎月農協に二〇、〇〇〇円、旭相互銀行に二五、〇〇〇円の預金をしていたから、少くとも毎月四五、〇〇〇円の純益を挙げていたものであり、本件事故当時四一歳で、なお二二年間は就労可能であったから、本件事故による死亡によって七、八七三、二〇〇円(一年について五四〇、〇〇〇円の二二年分のホフマン式による中間利息控除額)の得べかりし利益を喪失した。

(五)  虎一の右(四)の(1)、(2)の損害合計八、二三三、二〇〇円の賠償請求権を、法定相続分にしたがって妻である原告ノブ子が三分の一である二、七四四、四〇〇円、子である原告ふみ子が三分の二である五、四八八、八〇〇円を相続した。

(六)  本件事故に因って虎一が死亡したことによる、原告らに対する慰藉料としては、それぞれ、一、五〇〇、〇〇〇円が相当である。

(七)  よって、被告に対して本件事故による損害の賠償として、右(五)、(六)の各合計額のうち、原告ノブ子は四、〇〇〇、〇〇〇円、原告ふみ子は五、〇〇〇、〇〇〇円の支払いを求める。

二、被告の答弁

(一)  請求原因(一)の事実は知らない。

(二)  請求原因(二)の事実のうち、本件事故が発生し、虎一が死亡したこと、本件事故当時における本件踏切の南側の本件農道の両側の地形、本件踏切の南側からの線路上の見通しの状態が、概ね原告ら主張のとおりであったことは認める。本件踏切の北側の東端に設置してある線路鏡の直下からの線路上の見通し距離は、東側が約一二〇メートル、西側が約一〇〇メートルである。その余の事実は知らない。

(三)  請求原因(三)の事実のうち、本件踏切に踏切番が配置されておらず、遮断機、警報機、点滅機が設置されていないこと、本件踏切において昭和三八年に即死事故があったことは認めるが、本件踏切の設置、保存に瑕疵があったこと、本件事故が本件踏切の瑕疵に因るものであることは否認する。

(四)  請求原因(四)の事実は知らない。同(六)の相当慰藉料額は争う。

(五)  本件事故発生の経過の概要

(1) 本件踏切は被告の日豊本線大隅大川原駅(基点―小倉駅―からの距離四〇七・五〇三キロメートル)と北永野田駅間の、大隅大川原駅から約四・三六四キロメートル(基点からの距離四一一・八九四キロメートル)の地点にあり、東西の方向に通じている日豊本線と南北の方向に通じている本件農道とが直角に交差している、巾員二メートル、長さ六メートルの踏切である。

(2) 本件事故で虎一が運転していた耕耘機のトレーラーと衝突した列車は、三輛編成の下り第五四一気動列車(以下「本件列車」という)で、被告の宮崎機関区都城支区所属機関士大迫昇が運転し、所定発車時刻より七分三〇秒遅れて、昭和四四年八月二日午前一〇時五八分四五秒に大隅大川原駅を発車した。大迫機関士は本件列車が本件踏切の手前(東方)約五〇〇メートルの地点に達した際、北永野田駅の遠方信号機確認の適度気笛を吹鳴し、さらに本件踏切の手前約二〇〇メートルの地点附近に達した際、本件踏切に対する長緩気笛を吹鳴し、時速約五八キロメートルの速度で進行していたところ、本件列車が本件踏切の手前約一〇〇メートルの地点に達した際、南側(本件列車の進行方向左側)の切取りの陰から、本件踏切に進入してきた虎一が運転する耕耘機の前頭部を発見したので、直ちに非常気笛を吹鳴するとともに、急制動の措置を講じたが及ばず、本件列車の前頭中心部が、虎一運転の耕耘機のトレーラーの荷台附近に衝突し、右トレーラーを本件列車先頭車輛の下にまき込んだ状態で約八六メートル進行停車し、虎一は本件踏切の西方約一三メートルの軌道敷北側の側溝上に投げ出されて即死した。本件事故が発生した時刻は、午前一一時七分頃であった。

(六)  本件踏切にはその設置、保存について瑕疵はなかった。

(1) 本件踏切一帯は農山村であって、本件踏切の南側には山林、田畑が続いており、本件踏切を利用する者は南側の山林、田畑に出入する僅かの者であり、他方、本件踏切を通過する鉄道交通量は一日に三七回に過ぎない。本件事故当時における本件踏切の南側からの線路上の見通し距離は、直接的には東側は約八〇メートル、西側は約四〇メートルであったが、本件踏切の北側東端附近に設置してある線路鏡二個によって、東側は約一二〇メートル、西側は約一〇〇メートルに延長されていた。本件踏切の北側からの線路上の見通し距離は、東側は約一二〇メートル、西側は約一〇〇メートルであった。

(2) 被告に踏切保安設備の設置を義務づけている法令は、鉄道営業法の委任による日本國有鉄道建設規程、および踏切道改良促進法の委任による踏切道の保安設備の整備に関する省令であり、被告はこれらの法令、規程に基いて、「踏切設備設置及び取扱基準規程」を定めている。右省令によると、踏切道における鉄道交通量三〇以上五〇未満(本件踏切は三七である)、見通区間の長さ五〇メートル以上(本件踏切の見通区間の長さは、最短の方向で約一〇〇メートルである)、線路種別甲線区(本件踏切における日豊本線は甲線区である)の踏切道は、道路交通量三、八〇〇以上のものについてだけ踏切警報機の設置を要するものとされているが、本件踏切の道路(本件農道)交通量は、昭和四一年六月調査時において八一であり、過疎化現象によってその後さらに減少する傾向にあったから、本件事故当時においても、右の基準交通量三、八〇〇より遙に僅少であったことは明らかであり、警報機の設置を要しないものであった。

(3) 被告は列車運転士に対して、列車が無警手、無警報機のいわゆる四種踏切を通過する際には、当該踏切に通行者のいることを慮り、踏切に対する注意気笛を吹鳴するよう指導しており、列車運転士はこれを励行して危険の防止を計っており、現に本件列車の運転士大迫昇も、本件踏切の手前約二〇〇メートルで注意気笛を吹鳴している。そして、本件踏切附近一帯は極めて静寂な地域であるから、本件踏切を通行する者は、列車が吹鳴する注意気笛は勿論、相当遠方からの列車の進行音を聴取することも可能である。したがって、本件踏切の通行者が通常の注意をすれば、警報機等の設備がなくても、通過列車との危険を防止することは容易である。

(4)(イ) 昭和四三年九月四日、日本國有鉄道諮問委員会から被告代表者に対して、被告の赤字財政の主要な原因をなし、かつ國民経済的観点からも存在価値を失ったローカル線約六〇〇〇キロメートル(被告の全線の営業キロ数は約二〇、〇〇〇キロメートルである)の廃止、または自動車輸送への切換えの勧告がなされ、また被告の監査委員会の昭和四三年度の監査報告書によると、同年度の被告の経営成績は約一三四、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇円の赤字で、繰越欠損金は二八二、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇円に達した。そして、被告の赤字はその後も増大し、昭和四五年度の赤字は約一五〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇円、繰越欠損金は五五六、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇円に達するに至り、昭和四六年度は減価償却前赤字となることが必至の情勢となっている。しかるに、ローカル線の廃止、自動車輸送への転換は、地元の意向も尊重しなければならないという事情もあって、昭和四六年一二月末日までに廃止できたのは、僅に五線区約七〇キロメートルのみである。

(ロ) 昭和三一年八月、被告は本社に踏切対策委員会を設置して、戦後増加し続けてきた踏切事故に対処するため、踏切に関する事項を綜合的に調査審議し、事故防止対策の推進に努めてきた。さらに、昭和三六年二月、被告は本社に踏切保安部を、地方の鉄道管理局に踏切保安室を設置して、踏切関係業務の一元化と責任体制の確立を図った。そして、昭和三六年度から昭和四三年度までに、踏切道の整理統合、交通規制、立体交差化、保安設備の整備等に約九二、六〇〇、〇〇〇、〇〇〇円(鹿児島鉄道管理局―以下「鹿鉄局」という―管内では約九〇〇、〇〇〇、〇〇〇円)の巨費を投ずるとともに、部外関係機関との連携、各種のPR活動、踏切防護協力員の拡充等を実施してきた。右の諸対策の主な内容は次のとおりである。

(A) 踏切道の整理統合、交通規制

昭和三六年度初に約四二、五〇〇箇所(鹿鉄局では約一、七〇〇箇所)であった踏切道が、道路管理者、公安委員会の協力を得て、昭和四四年三月末には、約八、五〇〇箇所(鹿鉄局では約三五〇箇所)減の約三四、〇〇〇箇所(鹿鉄局では一、三五〇箇所)となり、踏切の平均間隔も四八〇メートル(鹿鉄局では約四〇〇メートル)から六一〇メートル(鹿鉄局では約五七〇メートル)に拡大され、踏切対策の措置率は約八〇パーセント(鹿鉄局では約三五パーセント)に向上した。

(B) 立体交差

踏切道の立体交差化には、一箇所について平均約一〇〇、〇〇〇、〇〇〇円以上の工事費と二ないし三年の期間を要するのであるが、昭和三六年度から昭和四三年度までに一、五四〇箇所(鹿鉄局では一〇箇所)の踏切道を立体交差化し、一、〇八〇箇所(鹿鉄局では四箇所)の踏切道を除去した。

(C) 保安設備の整備

昭和四三年度末で約三四、〇〇〇箇所(鹿鉄局では約一、三五〇箇所)ある踏切道の半数(鹿鉄局では約四四〇箇所)に保安設備を設置した。

(D) 部外関係機関との連携、およびPR運動

毎年春秋に政府主催で行われる全國交通安全運動に積極的に参加し、全國都道府県単位に設けられている交通安全対策協議会踏切事故防止対策協議会(鹿鉄局では八地区の協議会)を活用し、連携して交通安全思想の普及を計るとともに、踏切環境の改善を促進してきた。

(E) 踏切防護協力員制度の拡充

踏切保安掛が配置されていない踏切道における事故防止のため、踏切附近居住者に、列車の緊急停止手配、駅への連絡等を委嘱しており、昭和四四年三月末で八、三八〇名(鹿鉄局では約四〇〇名)に委嘱している。

(5) 踏切道の設置、保存についての瑕疵の有無は、単に踏切道における線路上の見通しの状態、過去における事故の発生という事実のみから判断されるべきでなく、被告が前記(4)の(イ)のとおりの巨額の赤字財政にもかかわらず、國民経済の大動脈として貨客の輸送を営み、前記(4)の(ロ)のとおり踏切道の安全対策の実行に努めている実情と、踏切道を通行する個人の安全の確保との間の均衡をも考慮して判断されるべきである。ところで、踏切道一箇所に遮断機一基を設置すると、その建設に約一、五〇〇、〇〇〇円、その維持に年間約五〇、〇〇〇円、警報機一基を設置すると、その建設に約二、〇〇〇、〇〇〇円、その維持に年間約一〇〇、〇〇〇円を要するのに対し、本件踏切は前記(1)(2)のとおり法令、被告の規程上遮断機、警報機等を設置すべき踏切道に該当しないばかりでなく、本件事故当時鹿鉄局管内にあったいわゆる四種踏切八四八箇所のうち、その後警報機が設置されたものを除く約八二〇箇所の踏切道について、列車見通し距離、通過列車数、道路交通量等を綜合した危険性の高い度合に従って順位を付した場合に、本件踏切は概ね六〇〇番目位になるものであり、前記(3)のとおり通行人の通常の注意によって容易に危険を防止できることを綜合、比較衡量するならば、本件踏切に警報機等の保安設備の設置を要求することは、公共の利益の増進を最大の目的として運送事業を営む被告に対して難きを強いるものであり、社会経済的観点からむしろ不経済のそしりを免れないものというべきである。

(6) 右のとおりで、本件踏切には線路鏡の設置を以て、その保安設備としては必要にしてかつ充分であるというべきであり、したがって、その設置保存について瑕疵はなかったものというべきである。

(七)  虎一が本件踏切を通行するに当り、安全の確認について通常の注意を払ったならば、本件列車運転士が吹鳴した注意気笛、および本件列車の進行音に気付いたはずであり、また、本件踏切に設置してある線路鏡を利用して線路上を見通したならば、本件列車が本件踏切の東方約一二〇メートルの地点に達したときには、これに気付き得たはずで、そうすれば、虎一は本件踏切に進入しなかったはずである。さらに、虎一が耕耘機を運転して本件踏切に進入し始めたとき、前記のとおり本件列車運転士が直ちに非常気笛を吹鳴し、急制動の措置を講じたのであるから、虎一が直ちに耕耘機から下車して避難すれば、同人の身体生命に対する被害の発生を避けるだけの時間的余裕はあったはずであるにかかわらず、虎一はこれをしなかったのである。したがって、本件事故、これによる虎一の死亡は、もっぱら虎一が本件列車の進来に気付かず、不用意に耕耘機を運転して本件踏切に進入し、さらに適切な避難行動をとらなかったという虎一の重大な過失と、虎一の誘導に当った堂領金造の誘導の不適切に因って発生したものであり、仮に本件踏切の設置保存上、その保安設備に瑕疵があったとしても、右の瑕疵の存在と本件事故の発生、虎一の死亡との間には、相当因果関係はないものというべきである。

第三、証拠関係≪省略≫

理由

一、昭和四四年八月二日午前一一時頃、被告の日豊本線の大隅大川原駅、北永野田駅間の、曽於郡財部町下財部に在る赤迫踏切(本件踏切)において、本件踏切を北進中の南郷虎一が運転する耕耘機に連結された木材を積載したトレーラーに、被告の下り五四一列車(ディーゼルカー三輛編成、本件列車)が衝突し(本件事故が発生し)、虎一が本件踏切の西方の線路北側の側溝内に投げ出され即死したことは、当事者間に争いがない。

二、本件踏切の設置保存上の瑕疵の有無について

(一)  本件踏切が、踏切警手が配置されておらず、踏切遮断機、踏切警報機が設置されていない、いわゆる四種踏切道であること、本件事故当時、本件踏切の南側の本件農道は、本件踏切の南側縁線から約一・五メートル南方から約四〇ないし五〇メートルの間の両側が、高さ約三ないし四メートルの崖となった切通しとなっていたこと、本件踏切附近において線路はカーブしており、かつ東方から西方へ下り勾配となっていること、本件事故当時、本件踏切の南側縁線附近からの線路上の見通し区間の長さは、直接的には、東側は約七〇ないし八〇メートル、西側は約三〇ないし四〇メートルであったことは、いずれも当事者間に争いがない。

(二)  右(一)の当事者間に争いのない事実と≪証拠省略≫を合せて考えると、次の事実が認められる。

本件踏切が在る日豊本線の大隅大川原駅、北永野田駅間は単線区間であり、本件踏切附近において線路は北側を外周とする半径三〇〇メートルのカーブとなっていて、かつ東方から西方へ(大隅大川原駅方面から北永野田駅方面へ向って)一〇〇〇分の二五の下り勾配となっており、本件踏切附近の軌道敷の巾員は約五・七メートルである。本件農道は南北の方向に通じ、巾員約二・五メートルで、大型、普通、特殊大型自動車の通行は禁止されており、軌道敷とほぼ直角に交差し、この交差部分である本件踏切の巾員は約二メートル(本件農道の巾員より狭くなっている)である。本件踏切より東側(大隅大川原駅方向)の軌道敷の北側は、軌道敷にほぼ並行して通じている県道に向って高さ約二メートルの北下りの斜面となっており(軌道敷の方が県道より高くなっている)、本件踏切の北側縁線上からの線路上の見通しを妨げるような物件はない。本件踏切より東側の軌道敷の南側は、本件踏切から約八五メートル(前記のとおりカーブとなっている線路に沿った曲線距離。以下軌道上の地点間の距離の表示は同様である)の間は、本件踏切の東南端附近から東南東方向に通じている巾員約二メートル位の農道に向って南下りの斜面となっており(軌道敷の方が右農道より高くなっている)、本件踏切の南側縁線上からの線路上の見通しを妨げるような物件はないが、右の区間より東側は、本件事故当時においては軌道敷面より約五ないし七メートル高く、草木が繁茂した丘陵地(以下「丙丘陵」という)となっていた(本件事故後に丙丘陵の西端から軌道敷に沿って東方へ約四〇メートルの区間の、軌道敷面より約一・五メートルの高さを超える部分は切除されて平坦地とされている)。右農道の南側は、本件事故当時はその南側縁線に沿って右農道路面からの高さ約五ないし六メートルの急斜面をなした丘陵地(以下「甲丘陵」という)となっていた(本件事故後前記丙丘陵の切除と同時に、甲丘陵のうち本件農道と右農道の交差点の東南隅、右地点から本件農道の東側縁線上を南側へ約二・二五メートルの地点、右交差点東南隅から右農道南側縁線上を東側へ約三〇メートルの地点、および右地点から南側へ約四・三メートルの地点を結ぶ線に囲まれる部分の右農道路面よりの高さ約一・二メートルを超える部分は切除されて、平坦地とされている)。本件踏切より西側の軌道敷の南側は、本件事故当時においては、軌道敷の南側縁線に沿って急斜面をなした軌道敷面からの高さ約七メートル位の丘陵地(以下「乙丘陵」という)となっており(本件事故後、前記丙丘陵の切除と同時に、乙丘陵のうち、本件踏切の南西隅、右地点から本件農道の西側縁線上を南側へ約五メートルの地点、および本件踏切の南西隅から軌道敷の南側縁線上を西側へ約三〇メートルの地点を結ぶ線に囲まれる部分の軌道敷面よりの高さ約一・二メートルを超える部分は切除されて、平坦とされている)、本件踏切より西側の軌道敷の北側もほぼ南側と同様の丘陵地となっている(但し、本件農道の西側縁線に面する部分は、緩斜面となっている)。

本件踏切の北東隅から北東方約一・三メートルの地点に立てられている支柱に、本件踏切より西側の線路上の見通し区間を伸長させるための直径約六〇センチメートル位の線路鏡が南西向きに取付けられており、本件事故当時においては、これよりやや高い位置に、本件踏切より東側の線路上の見通し区間を伸長させるための同様の線路鏡が南東向きに取付けられていた。

本件事故当時における、本件踏切の北側縁線附近からの東側線路上の見通し区間は、前記のとおり線路敷北側には見通しを妨げる物件はないが、線路が南側へカーブしていることと、丙丘陵があったために、約一一〇ないし一二〇メートル位、西側線路上の見通し区間は線路のカーブと乙丘陵のために約一〇〇メートル位であり、本件踏切の南側縁線附近からの東側線路上の見通し区間は直接的には丙丘陵のために約八〇ないし八五メートル位、前記の線路鏡を利用した場合にも、線路がカーブしていることと丙丘陵のために約一二〇メートル位であり、西側線路上の見通し区間は直接的には線路がカーブしていることと乙丘陵のために約四〇ないし五〇メートル位、前記の線路鏡を利用した場合に約一〇〇メートル位であった。

本件踏切の周辺は山間の農村地帯であり、本件踏切を通行利用するのは、主として戸数いずれも二〇戸余の赤坂部落、吉ケ谷部落の住民が、その耕作する田畑、および山林へ往復する場合であるが、農家への耕耘機の普及という一般的趨勢にしたがって、本件事故当時においては既に右両部落民の多くが耕耘機を使用するようになっていた。そして、耕耘機にトレーラーを連結した場合、その全長は約五・五メートル位となり、このトレーラーを連結した耕耘機が本件踏切を通過する(耕耘機の先頭部が本件踏切の縁線の直前となるようにして一旦停車させた状態から発進し、トレーラーの最後尾が本件踏切の反対側縁線を通り過ぎるまで、すなわち、停車状態から発進して約一一・二メートル進行する)には、既ね一二ないし一三秒位を要する。

本件踏切を通過する列車には、蒸気機関車、または電気式ディーゼル機関車によって牽引されるものと、ディーゼルカー(気動車)とがあり、本件踏切附近における最高制限速度は、蒸気機関車については時速六〇キロメートル、ディーゼルカーについては毎時六五キロメートルと定められているが、通常所定の時刻表にしたがって運転される場合における下り列車(大隅大川原駅から北永野田駅に向って進行する)の本件踏切附近における進行速度は時速六〇キロメートル位である。そして、本件事故当時、下りディーゼルカーの運転士が、本件踏切の南側の本件農道から本件踏切に進入しようとする人車を認めることができるのは、前記のとおり線路がカーブしていること、および丙丘陵があったため、運転席が本件踏切の東方約一〇〇メートルの地点に到達した時であり(ディーゼルカー、電気式ディーゼル機関車、蒸気機関車の運転士の、進路前方に対する見通しの範囲を比較した場合、右各車輛の構造、運転席の位置から考えて、ディーゼルカーと電気式ディーゼル機関車とほぼ同様であるが、蒸気機関車は右の両者に比して、見通しの範囲が狭いものと推認される)、一〇〇〇分の二五の下り勾配の線路上を時速六〇キロメートルで進行している列車の制動距離(運転士が停車させる必要がある事態の発生を認識してから、停車するまでに進行する距離で、いわゆる空走距離と滑走距離の合計)は少くとも二〇〇メートル以上である。

右のように認められる。証人堂領金造の証言のうちには、本件事故当時、本件踏切に設置してある線路鏡は鏡が錆びていて、その機能を営んでいなかった旨の証言があるが、≪証拠省略≫によって認められる右線路鏡の構造に照らすと、鏡面に塵埃等が附着することによって鏡の鮮明度がある程度低下した状態にあったというようなことは考えられるけれども、右証言は、たやすく信用できず、他に右各認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  右(二)認定事実からすると、

(1)  所定の運転時刻表にしたがって運転されている下り列車(時速六〇キロメートルとする)の運転士が、本件農道から(本件踏切の北側からであっても、南側からであっても)本件踏切へ進入しようとする人車を発見して、直ちに急停車措置をとっても、列車は本件踏切到達前に停車することはできない。

(2)  トレーラーを牽引した耕耘機が本件踏切を通行しようとした場合に、本件踏切の通行を開始してから列車との接触の危険がなくなるまで(日本國有鉄道建設規定第五六条によると、本件踏切を通過する列車の車輛の巾員は三メートル以内であり、軌条の中心線が軌道敷の中心線とほぼ一致するように軌条が敷設されているものとすると、本件踏切内の軌道敷の中心線から耕耘機の進行方向へ約一・五メートルの線をトレーラーの後端部が通過すれば、列車との接触の危険は一応なくなるものということができる。したがって、トレーラーを牽引する耕耘機の全長を五・五メートルとすると、耕耘機の先頭部が本件踏切の縁線に達してから約九・八五メートル進行すれば、列車との接触の危険は一応なくなるものということができる)に要する時間は、約一〇・五秒ないし一一・五秒位である。

(3)  時速六〇キロメートルで走行している列車が、急停車の処置をとった場合に、二〇〇メートル走行して停車するものとすると、減速度(マイナスの加速度)は毎秒約三六分の二五メートル、停車までに要する時間は約二四秒、この列車が急停車の処置をとった地点から一〇〇メートルの地点に到達するまでの所要時間は約七秒、一二〇メートルの地点に達するまでの所要時間は約九秒ということになる(右の計算式は別紙記載のとおりであり、減速度は一定で、かつ空走距離はないものとしての計算である。実際には減速効果が発生するまでに若干の時間を要し、減速されないままで走行する区間があるから、実際の所要時間は右計算上の所要時間よりも若干短くなるものと考えられる)。してみると、本件農道からトレーラーを牽引した耕耘機が本件踏切に進入した直後に、時速六〇キロメートルで走行している下り列車が本件踏切縁線上からの東側線路上の見通可能区間の限界である、本件踏切から一二〇メートルの地点に到来したとすると、耕耘機が本件踏切に南側から進入し、列車運転士が本件踏切から一〇〇メートルの地点でこれを発見して、直ちに急停車の措置をとっても、トレーラー後端が前記(2)の列車との接触の危険がなくなる線を通過するより前に、列車は本件踏切に到達してしまう(衝突事故が発生する)ことになるし、耕耘機が本件踏切に北側から進入し、列車運転士が本件踏切から一二〇メートルの地点でこれを発見でき、直ちに急停車の措置をとった場合においても、衝突事故発生の危険性がある。

(四)  日本國有鉄道運転規則第二九条には、四種踏切で通行人が列車の接近状態を認めることが困難なものについては、適当な位置に気笛吹鳴標を設け、通過列車は右標識の箇所で長緩気笛一声(同規則第一三六条によって、列車の接近を知らせる合図とされている)を吹鳴しなければならない旨定められており、≪証拠省略≫によると、本件列車が本件踏切の手前(東側)約二〇〇メートルの地点に達した際、大迫運転士が本件踏切に対する本件列車の接近を知らせるため長緩気笛一声を吹鳴したこと、本件検証中に本件踏切を通過した下り列車四本は、その本件踏切への接近を知らせる気笛を吹鳴したことが認められるが、右各下り列車の気笛が吹鳴されてから当該列車が本件踏切に到達するまでの所府時間は最大で一二秒、最小のものは七秒であったこと(本件踏切に対する気笛吹鳴標が設置されていることを認める証拠はない)と、前記(三)の(2)のトレーラーを牽引した耕耘機が本件踏切に進入してから列車との接触の危険がなくなるまでの所要時間を対照し、さらに、気笛音はその聴取可能距離が風向、風力によって影響を受けること、前記(二)認定のとおり本件事故当時、本件踏切南側の本件農道は本件踏切の極く近くまでがその両側を甲、乙丘陵にはさまれた切り通し状となっていて、列車の気笛音が聴え難い地形となっていたこと、および耕耘機のエンジンの爆発音は相当高く、列車の気笛音の聴取を相当妨げると考えられることなどを考え併せると、本件踏切を通過する列車がその接近を知らせるため長緩気笛一声を吹鳴すべきことになっていて、それが励行されているということは、トレーラーを牽引して本件踏切を通行する耕耘機の運転者が相当の注意を払った場合においても、下り列車との接触事故を防止するについて十分に確実な事故発生防止方法であるとはいえない。

(五)  ≪証拠省略≫を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1)  鉄道営業法第一条、日本國有鉄道建設規程(昭和四年鉄道省令第二号)第五二条、踏切道改良促進法第三条第二項、第四条第二項、踏切道の保安設備の整備に関する省令(昭和三六年運輸省令第六四号)に基いて、被告が昭和四〇年四月二〇日、「踏切設備設置及び取扱基準規程」を定めており、右運輸省令第二条、被告の規程第七条は、踏切道に踏切警報機を設置すべき基準として、線区の種別(定期に運転される列車の最高速度、長さによって、甲種線区と乙種線区に分類)、見通し区間の長さ(見通し区間の長さ五〇メートル未満のものと、五〇メートル以上のものに区分)、一日当りの鉄道交通量(入換車輛を〇・五、線区を通じて最高速度が毎時四〇キロメートル以下で、かつ長さが三〇メートル以下である列車を〇・七、その他の列車を一として換算した数値)、一日当りの道路交通量(歩行者を一、自転車を二、自転車を除く軽車輛を四、原動機付自転車及び二輪自動車を八、三輪自動車を一九、二輪、三輪自動車以外の自動車のうち乗用車を一二、その他の自動車を一四として換算した数値)に拠る基準を定めており、右基準によると、甲種線区に在り、一日当りの鉄道交通量が三〇以上五〇未満(本件踏切の本件事故当時の一日当りの鉄道交通量は三七であった)で、見通し区間の長さが五〇メートル以上(本件事故当時における本件踏切の見通し区間の長さが、線路鏡を利用することによって、最短の方向で約一〇〇メートル位となっていたことは前記(二)に認定のとおりである)の踏切道では、一日当りの道路交通量が三、三〇〇を超えるものについて、踏切警報機を設置すべきものと定められているところ、本件踏切の一日当りの道路交通量は被告による昭和四四年六月における調査によると、八一であった。

(2)  前記運輸省令、被告の規程第七条は、前記の鉄道交通量、道路交通量等による基準のほかに、当該踏切道において、前記規程施行の日以後の日を含む三年間に三回以上、または一年間に二回以上事故が発生し、かつ踏切警報機の設置によって事故の防止に効果があると認められるもの、当該踏切道の附近に幼稚園、または小学校があること、その他の特殊の事情により危険性が大きいと認められるものを、踏切警報機を設置すべき基準として定めているが、本件踏切においては、昭和三八年一月に、本件踏切を北から南へ通行しようとした自動二輪車と下り車が衝突し、右自動二輪車の運転者が死亡する事故があり、その次に発生した事故が本件事故であり、また本件踏切附近には幼稚園、小学校等はない。

(3)  被告は、前記事実摘示の被告の答弁の(六)の(4)の(ロ)に記載のような踏切事故防止対策を講じてきた。踏切道一箇所に遮断機一基を設置すると、その建設に約一、五〇〇、〇〇〇円、その維持に年間約五〇、〇〇〇円、警報機一基を設置すると、その建設に約二、〇〇〇、〇〇〇円、その維持に年間約一〇〇、〇〇〇円の費用を要する。

右のように認められ、右各認定を覆すに足りる証拠はない。

(六)  右(五)の(1)、(2)認定事実によると、本件踏切は前記運輸省令、被告の規程上は、踏切警報機を設置しなければならない踏切道に該当しないものであるが、右省令、規程の前記のような基準の内容から考えれば、前記の基準上保安設備を設置しなければならないものに該当しないということのみから、保安設備が設置されていなくても、列車運行の確保と道路交通の安全の調整という踏切道としての機能を果しうるものと即断し得ないことは明らかである。そして、踏切道が果すべき右機能からすれば、通常人(幼児でない通常の身心の能力を有する者)が相当の注意を払って通行(歩行または車輛を運転して)し、通過列車の運転者も相当の注意を払って列車を運転した場合において、なお事故発生の蓋然性があるような踏切道は、踏切道としての設置について瑕疵があるものというべきである(踏切道を通行する者は前記の通常人に限らず、幼児、および身心の能力が劣り、あるいは障碍のある者もあり、また総ての通行者が相当の注意を払って通行するとは限らないことが明らかである以上、通常人が相当の注意を払って通行した場合に事故発生の蓋然性がないからといって、直ちに踏切道としてその設置に瑕疵がないといえないことは勿論である)。ところで、前記(二)、(三)に認定判断したところによると、本件事故発生当時における本件踏切は、本件農道の通行を法律上許容されているトレーラーを牽引した耕耘機を運転して通行しようとした場合(一般に耕耘機は、運転者が乗車して走行しようとする場合には、トレーラーを牽引する状態でなければできない構造になっている)(殊に南から北へ通行しようとした場合)、東側線路上の見通し可能区間(南から北へ通行しようとする場合には、線路鏡を利用した見通し可能区間)内に下り列車がいないことを確認したうえで本件踏切内への進入を開始し、下り列車運転士が耕耘機を発見可能な最長距離で発見して、直ちに急停車の処置をとった場合においても、列車と耕耘機との衝突事故発生の蓋然性があったということができるから(歩行者の場合には、停止し、走り、進路を変換する等事故回避のための運動能力が、トレーラーを牽引している耕耘機に比べて遙かに大であり、かつ本件踏切の南北の方向の中央部の巾約三メートルの範囲から脱出すれば、すなはち、最大限約三メートルの距離を移動すれば、列車との衝突事故を回避することができるのであるから、前記(三)の(3)に判断したところに照らして考えると、通常人である歩行者が相当の注意を払って通行する場合には、列車との衝突事故発生の蓋然性はなかったということができるが)、本件踏切には土地の工作物である軌道施設としての設置に瑕疵があったものといわなければならない。

本件踏切を通過する列車の運転士が警笛を吹鳴することを義務付けられており、かつ右義務が励行されているとしても(すなはち、本件踏切は警笛を吹鳴する列車が通過することを前提として、その設置についての瑕疵の有無を判断すべきものであるとしても)、前記(四)に判断したとおり本件踏切を通過する列車の吹鳴する警笛が、事故発生防止方法としての確実性が十分なものであるといえない以上、本件踏切の設置上の瑕疵の存在を否定し得ないものといわなければならない。

被告の財政が相当長期にわたり、かつ膨大な額の赤字となっていることは公知の事実であり、しかも、被告が踏切道における事故発生防止のため相当多額の資金を費して踏切道の構造の改良、保安設備の整備を行っていること、および踏切道の遮断機、警報機の設置に要する費用額は前記(五)の(3)に認定のとおりであり、右の各事実と前記(五)の(1)に認定の本件事故当時における本件踏切の一日当りの鉄道交通量、道路交通量を考え合わせると、本件踏切に警報機を設置することは、その投資の経済的効率という点では、極めて低いものということができるが、右の点も、前記のような本件踏切の事故発生の蓋然性による瑕疵を否定し得ないものというべきである。

三、本件踏切の設置保存上の瑕疵と本件事故の発生との間には、因果関係がない、という被告の主張について、

(一)  ≪証拠省略≫を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1)  長さ五尺位に切った原木を高さ四尺位に積んだトレーラーを連結した耕耘機を虎一が運転し、堂領金造は徒歩で同行して、本件農道を北進して来て、耕耘機の先頭部が本件踏切の南側縁線の南側約一・三メートル位に到達した処で、虎一は耕耘機を停車させ、エンジンをかけたままで虎一は耕耘機から下車し、虎一、堂領の両名ともに徒歩で本件踏切を通って本件踏切の北側縁線の北方約一二メートル位の県道から本件農道への入口附近にある掲示板の処へ行った。虎一が右掲示板に掛けてある時計による時刻と掲示してあった本件踏切を通過する列車の時刻表(但し、右時刻表に記載されていた時刻が、列車が本件踏切を通過する時刻であるか、北永野田駅を発着、あるいは通過する時刻であったかは、これを認めるに足りる証拠がない)を対照したところ、列車が定時に運転されているとすれば、数分前に列車が本件踏切を通過し、その後約一時間位は通過列車はないものと考えられた。虎一、堂領の両名は本件踏切へ戻り、堂領は虎一の運転する耕耘機が本件踏切を通行する誘導に当るため、本件踏切の北東隅から少し北東側に立ち、虎一は前記のように停車してあった耕耘機に乗車した。堂領は、進行して来る列車を認めなかったので、虎一に対して、前進するよう合図し、虎一は右合図に従って耕耘機を発進させ、本件踏切内に進入した。

(2)  大迫昇が本件列車を運転し、大隅大川原駅を定時よりも約七分遅れて午前一〇時五八分四五秒頃に発車し、右駅から約三、五〇〇メートル位の距離にある峠までの一〇〇〇分の二五の上り勾配を、時速約三五キロメートルないし二五キロメートル位で進行し、右峠(本件踏切まで約八〇〇メートル余の距離にある)附近にある踏切を通過するに当って、列車の接近を知らせる気笛を吹鳴した。右峠を通過して線路が一〇〇〇分の二五の下り勾配となるにしたがい本件列車の速度は自然に加速され、本件踏切の東方約二〇〇メートル位の地点(峠から約六〇〇メートル位下った地点)に達した際には時速約五八キロメートル位になっていた。この間に本件踏切の東方約四〇〇メートル位の地点に本件列車が達した際、大迫運転士は、本件踏切の東方約四〇メートル位の軌道敷北側縁線上に設置してある北永野田駅の遠方信号機が、進行信号を表示しているのを確認し、その旨を喚呼するとともに、適度気笛一声を吹鳴した。そして、本件列車が本件踏切の東方約二〇〇メートルの地点に達した際、大迫運転士は、本件列車の本件踏切への接近を知らせるため長緩気笛(注意気笛)一声を吹鳴した。ところが、本件列車が本件踏切の東方約一〇〇メートル位の地点に達して、大迫運転士が本件踏切を見通すことができるようになった際、本件踏切の南側に、甲丘陵の法面から先頭エンジン部分だけが本件踏切の方へ出ている虎一が運転する耕耘機を発見した。大迫運転士はとっさに右耕耘機が本件踏切に進入しようとしているものであり、本件列車と衝突する危険があると感じ、直ちに急停車の処置をとるとともに、短急気笛を連続的に吹鳴し続けたが、虎一が運転する原木を積載したトレーラーを牽引した耕耘機はそのまま本件踏切内を北側に向って進行を続け、本件列車の先頭部が右トレーラーに衝突し、その衝撃によって耕耘機は切り離され、虎一は約一一・二メートル西方の軌道敷北側の側溝内に投出されて即死し、耕耘機は西方約一三・四メートルの軌道敷北側側溝上に跳飛ばされて破壊し、本件列車は先頭車輛の前面車台下にトレーラーを巻込むようにして約八六・六メートル西進して停車した。

(3)  本件事故の際、天候は曇であったが雨は降っておらず、特に風が強いということもなかった。

右のように認められる。≪証拠判断省略≫

しかしながら、虎一が本件踏切を通行するために耕耘機を発進させるより前に、虎一、堂領が本件列車が接近して来ていることを知っていたことを認めるに足りる証拠はない。また、右(1)ないし(3)認定事実から、虎一、堂領が本件列車の接近を知っていたものと推認することはできず、他に、右推認を相当とするに足りる証拠もない。

右(1)ないし(3)認定事実からすれば、本件列車が本件踏切の東方約二〇〇メートルの地点に到達した際に大迫運転士が吹鳴した長緩気笛一声(証人大迫昇の証言によると右気笛吹鳴中に本件列車は約二〇ないし三〇メートル位進行したものと推測される)は、右気笛が吹鳴された際にエンジンがかけられた状態にあった耕耘機の運転席、またはその附近に居たと推測される虎一はともかくとして、耕耘機から約七メートル位離れた本件踏切の北側で、接近する列車の有無の見張に当っていた堂領が、接近列車の有無について十分の注意を払っていたならば、耕耘機のエンジンの爆発音にかかわらず、聴取でき、これによって本件列車の接近を知り得たであらうと推測できる。堂領が右気笛に気付かなかったとすると、それは、前記認定のとおり当時の時刻が、列車が定時に運行しているとすると、数分前に列車が本件踏切を通過し、以後約一時間位の間本件踏切を通過する列車はないものと考えられる時刻であったことから、同人が接近列車の有無について十分の注意を払っていなかった過失に因るものと考えるのが相当である(本件列車の大迫運転士が本件踏切の東方約八〇〇メートル位の地点で長緩気笛一声を、本件踏切の東方約四〇〇メートル位の地点で適度気笛一声をそれぞれ吹鳴したと認められることは前記のとおりであるが、右各気笛が吹鳴された際の右の各距離、気笛の種類(吹鳴の長さ)、耕耘機のエンジンの爆発音等を合わせて考えると、右各気笛に虎一、堂領が気付かなかったとしても、これをもって、虎一、堂領に接近列車の有無について注意を払う点について過失があったものということはできない)。また、虎一も遅くとも大迫運転士が短急気笛の吹鳴を始めた直後には本件列車に気付いたと認めるのが相当であり(証人大迫昇、同山元実義の各証言のうちには、虎一が一度も本件列車の方に顔を向けなかった旨の証言があるが、虎一が本件列車の方へ顔を向けなかったからといって、同人が本件列車に気付かなかったものと推認することは相当でない)、前記二の(三)の(3)に判断したところによると、右の虎一が本件列車に気付いた時から本件事故が発生するまでには約七秒前後の時間があったと考えられることからすれば、虎一が本件列車に気付いた際、直ちに耕耘機から下車して(前記二の(二)に認定したトレーラーを牽引した耕耘機の速度からすれば、耕耘機から下車することは、走行したままであってもさして困難なことではないと考えられる)、本件列車と接触する危険のある範囲から脱出することは可能であり、右のようにすれば、耕耘機、トレーラーと本件列車の衝突は免れないにしても、虎一の身体、生命の損傷は避け得られたものと考えられるのであり、虎一が耕耘機を運転し続け、本件踏切に本件列車が到達する前に、本件踏切内の衝突危険範囲を通過し終ることによって衝突を避けようとしたことは、耕耘機の速度、トレーラーを含めた車長等を考えると、とっさのこととはいえ、事故回避のための適切な判断を誤ったもので、過失があるものというべきである。右のように、本件事故の発生について、接近列車の見張り、耕耘機の誘導に当った堂領金造に過失があり、また、本件事故による虎一の死亡という結果の発生について虎一に過失があったということができるが、右の各過失はその内容、程度を考えると、いずれも法律上の重大な過失には当らないものというべきである。

右のとおりで、虎一が本件列車の接近を認識しながら、あえて本件踏切を通行しようとしたものと認められず、したがって、本件事故の発生が虎一の故意によるものといえず、また、本件事故の発生、虎一の死亡という結果の発生について、堂領金造、虎一にそれぞれ過失はあったが、その過失が故意にも匹敵すべき重大な過失といえないものであるから、本件事故の発生、虎一の死亡と本件踏切の設置上の瑕疵との間には因果関係がないという被告の主張は採用できない。

四、被告の損害賠償額について

(一)  ≪証拠省略≫を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1)  虎一は大正一五年六月二七日生で、相当以前から山林の立木を買い、これを伐採して売却することを主たる生業としていたほか、本件事故当時においては、杉、檜を植林した山林約四町歩、密柑山約三反歩、田約三畝歩、豚六頭を所有し、密柑の栽培、養豚等も営み、これによって、妻である原告ノブ子(昭和五年三月一五日生)、子である原告ふみ子(昭和二三年一月八日生)との三名の家族の生計を維持していたもので、本件事故当時、株式会社旭相互銀行に対する五〇〇、〇〇〇円、神園長市に対する五〇〇、〇〇〇円の各借受金債務、久保田鉄工株式会社に対する本件事故の際運転していた耕耘機、トレーラー等の売買代金債務二六三、六六七円の各債務を負担していたが、右各債務のうち、耕耘機等の売買代金残債務のうちの一五八、二〇〇円を除くその余の債務は、原告ノブ子によって、虎一が株式会社旭相互銀行、隼人町農業協同組合に対して行っていた定期積金、預金等によって虎一死亡後間もなく返済され、右売買代金残債務のほかには、虎一は特段の負債は残さなかった。虎一は生前前記のとおりの営業をしていたが、少くとも昭和四二年度以降においては、その所得申告を行っていなかった。原告ノブ子は、虎一死亡後も、田の耕作、密柑の栽培は続けているが、養豚は虎一死亡による人手不足のため廃止し、昭和四五年中から陶器製造会社に工員として勤務し、現在月収二七、〇〇〇円位を得ており、原告ふみ子は婚姻した。

(2)  本件事故の際虎一が運転していた耕耘機、トレーラーは、昭和四四年六月に、虎一が代金合計三五六、四〇〇円で買受けたものであるが、本件事故によって破壊してしまい、無価値なものとなってしまった。

右のように認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(3)  右(1)認定事実と当裁判所に顕著な平均余命年数、平均的生計費等を綜合して考えると、虎一は本件事故当時、少くとも月額二〇、〇〇〇円(年額二四〇、〇〇〇円)の純益(虎一自身の必要生活費を除いたもの)を得ていたものであり、なお少くとも一七年間(虎一は死亡当時満四三歳一月余であった)は同様の収益を得られたものと推認することができるから、本件事故による死亡によって虎一が喪失した右の得べかりし利益のホフマン式計算方法による年五分の割合による中間利息を控除した現在額は二、八九八、四八〇円である。原告らは、虎一が死亡当時毎月四五、〇〇〇円の預金をしていたから、少くとも右と同額の純益を得ていたと主張し、≪証拠省略≫によると、虎一が隼人町農業協同組合に対して月額一〇、〇〇〇円の積立貯金をし、株式会社旭相互銀行に対して、積立、および借受金元金、利息の弁済金を合わせて毎月三七、一四〇円宛入金していたことは認められるが、右の株式会社旭相互銀行に対する入金が債務の弁済金を含むこと、および右(1)認定のとおり虎一には他にも債務があったことを考え合わせると、右認定事実から直ちに虎一が右積立貯金、入金額と同額の純益を得ていたものということはできず、他に虎一が前記推認額以上の純益を得ていたことを認めるに足りる的確な資料はない。

(4)  右(2)認定事実によれば、本件事故による耕耘機、トレーラーの破損によって、虎一はその事故当時における価額である三四一、五五〇円(耐用年数を四年とし、定額法によって二月分の減価償却をした残額)の損害を被った。

(5)  右(3)、(4)認定事実によると、虎一は本件事故によって合計三、二四〇、〇三〇円の財産上の損害を被ったことになるが、前記三に判示したとおり本件事故の発生、虎一の死亡については、堂領金造、虎一にそれぞれ過失があること(堂領の過失は被害者である虎一側の過失として斟酌されるべきものと考える)、他方、前記三の(2)認定事実によれば、本件列車運転士大迫昇には列車運転士としての過失はなかったということができること、ならびに前記二に認定判示した本件踏切の設置上の瑕疵の程度等を合わせて考えると、被告に対しては、虎一の右損害額のうち一、五〇〇、〇〇〇円の限度で、賠償義務を負わせるのが相当であると考える。したがって、虎一の死亡による損害賠償請求権の原告ノブ子の相続額は五〇〇、〇〇〇円、原告ふみ子の相続額は一、〇〇〇、〇〇〇円となる。

(6)  本件事故による虎一の死亡についての原告らに対する慰藉料額としては、前記のとおりの虎一側の過失、本件踏切の瑕疵の各内容、程度、その他諸般の事情を合わせて考えると、原告ノブ子については五〇〇、〇〇〇円、原告ふみ子については二五〇、〇〇〇円をもって相当と考える。

結論

以上のとおりであるから、原告らの本件請求は、被告に対して本件事故に因る損害賠償として原告ノブ子については一、〇〇〇、〇〇〇円、原告ふみ子については一、二五〇、〇〇〇円の支払いを求める限度においては理由があるが、右の限度を超える分はいずれも理由がないものといわなければならない。

よって、原告らの請求をそれぞれ右の理由のある限度において認容し、その余の請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条、第九三条を、仮執行の宣言、およびその免脱の宣言について同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 寺井忠)

<以下省略>

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